民謡研究家  牧  賢蔵

目 次
追分節の源流説本荘追分と信濃の追分歌詞について
旋律、拍子について踊りについて本荘追分と伊予節
伝承に力を尽くした人たち本荘追分全国大会と追分塾開講

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追分節の源流説

(1)
 南部馬で有名な岩手の「馬方節」が道中歌として、北国街道・中仙道を通り信州(長野)に入り宿場において最初銚子の袴などによる擬音伴奏からやがて、二上り調三味線伴奏の酒盛歌の「馬方節」となった。更に三下り調の「馬方三下り」となり、この三下りが、「越後三下り」、「津軽三下り」、「江差三下り」などとなり各地に広まった。又信州の三下りは本調子の「追分節」となり、これから、隠岐(島根)、初瀬(奈良)、河口湖(山梨)、五箇山(富山)、本荘(秋田)、片品(群馬)、信濃(長野)、朝の出がけ(千葉・茨城)、親沢(長野)と各地に同系の追分を生んだ。
 一方「越後馬方三下り」から「松前節」が生まれ、やがて「江差追分旧節」に連なり、「北海道松前節」から「古調江差追分」、そして現在の「正調追分節」となっている。従って賑やかな早間の拍子の追分と江差に代表されるゆるやかな抽子(間)のものと大別される。現在前者は三味線伴奏が中心となり、後者は尺八伴奏が主となった。(以上竹内勉、外)

(2)
 モンゴルに残る民謡「小さい葺色の馬」が信州の「小室節」に大変よく似ているというのでその連がりを考える説もある。「小室節」が「三下りの追分節」(信州)、そして本調子の「信濃追分」へとなったものである。(以上長尾真道・外)

(3)
 最近、更に西シベリアのどこかで生まれた一つの歌が、山脈を越え草原を渡り、東へ西へ、ユーラシヤ大陸を旅し、西へはフィン・ウゴロ族の移動と共にフィソランド・エストニアそしてハソガリーへ、東は遊牧人と共にカザフスタソ・モンゴル・朝鮮半島、そしていつの日か海を渡って日本海沿岸に辿りつき馬子歌となったとする説、何れにしても南部馬や信州馬はその昔、品種改良のためモンゴルより優れた種馬を輸入したと伝えられているから、その馬丁達によって彼の地の歌も伝えられたことは充分考えられることである。

本荘追分と信濃の追分

(1)由利と信濃(長野)

 昔より関係が深く、記録に残るものでも、建保元年(1213)、「由利を大弐局に賜う」(吾妻鏡)とあり、この大弐の局は、源頼朝の側室、信濃小笠原長清の妹で大井朝光の叔母に当る。更に応仁元年(1467)「由利十二頭信州より下る」(由利十二頭記)によると、その一人仁賀保氏の先祖は信州佐久郡大室住の大室氏であり矢島に下った大井氏の祖は同郡長土呂で共に「信濃追分」(岩村田追分)の生まれた岩村田の近くである。
 以後江戸時代に入って、六郷(本荘)生駒(矢島)、岩城(亀田)藩政になってからも、善光寺、伊勢、熊野参り、京大阪への往来に同地に立寄り旧交を暖め民謡なども持ち帰ったことであろう。

(2)歌詞の比較

 古い歌詞は似たものを挙げてみると
「主ぱ浮気の田毎の月よどこに誠を照らすやら」………(本荘)
「君の心ぱ田無の月よどこに誠を照らすやら」……(信濃)
 由利の奥地山合の棚田と信州のそれとよく似ている、昔は水田で、今では杉など植林されているが、田形だげは残っている。
「立石堂立石堂の坂でホロと泣いたり泣かせたり」……(本荘)
「確氷桝方の茶屋でホロと泣いたが忘らりょか」…………(信濃)
 矢島立石より東由利に通ずる立石峠。近くに、「立石観音」がある。又本荘石沢地域で東由利に通ずる峠とする説もある。
 「信濃追分」も、もとは北佐久郡大井村(現佐久市)岩村田地方の歌で、大正14年この歌を復活し、長野市における県大会発表以来「岩村田追分」を「信濃追分」と呼ぶようにしたという。本荘の場合も由利の各地で歌われていた「追分」を古雪芸妓達が、
「本荘名物焼山のわらび焼げば焼くほど太くなる」……と歌い出して「本荘追分」となったと思われる。

(3)歌曲の比較

 「信濃追分」は「本荘追分」よりややゆっくり、しっとりとした座敷歌であるが次に示すように合いの手、三味線も本調子と全く同じである。
 「確氷峠の(ア、キタホイ)エー権限様はヨー(キタホイキタホイ)主のためには(ア、キタホイ)、守り神(ア、キタホイ)」
 最近の研究では「信濃追分」より古く、「追分馬子唄」に近いという研究も発表されている。

歌詞について

(1)古い歌詞

「本荘名物焼山のわらび焼けば焼く程太くなる」
「本荘名物焼山のわらび小首かしげて思案する」
 現在歌われている最も代表的歌詞の「焼山」は特定の地名か否か、昔は採草地を山焼きをした。その灰を肥料として太いわらびが育った。
 特定の地とすれば、本荘古雪港に最も近いわらぴの産地とする石沢日住山麓、地名としてはっきりとは出ていないが石沢川そして子吉川(矢島川ともいった)を下って古雪港へ、又矢島領になるが、矢島から西馬音内に通ずる鳥海町八木山、幕末には「焼山」といった時があり、枯木(カレボク)といったあたりはわらびの名産地といわれた。
 何れ山菜漬物の王者「わらび」が「本荘名物」となって、京、大阪、江戸まで運ばれたことは明らかである。又酒盛歌でもあるので次のような艶のある歌詞も生れた。
「しかと抱きしめあの大木に 腰でなかせる夏の蝉」
「思いかけたらはずすな男 かけてはずすは樋の水」
「わしとお前はくね木の桜 ゆわれながらも咲いている」
「いくら通うても青山もみじ 色のつくまで待ちてくれ」
 興ずるに従い掛合い、他からの流用(七七七五調)、即興的な歌詞も生まれたであろう。
「歌う口もて歌わぬ者は 誰に口止めされたやら」
「誰に口止めされたじゃないが、実なし胡桃で口あかぬ」
「歌え歌えとわしだげ責める わたし歌えば誰せめる」
「色の道にも追分あらば こんな迷いはせぬものを」
「お酒飲む人花ならつぼみ 今目も咲け咲け明目も咲け」
「お酒飲む人万年生きる そこで酒飲み亀という」
「酒ぱもとより好きでは飲まぬ 会えぬつらさにやけて飲む」
「お前さんなら命もやろか よその方なら気もやらぬ」
「今宵会うとは夢さえ知らぬ これもウソゲの花じゃもの」
「酒と煙草を一度に飲めば 思い出したり忘れたり」
「咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る」
「三味に歌わせ胡弓にとわせ 琴の調べてしんとする」
「布団着たよな日住の山に 帯こ解いたよな子吉川」
「梅のかおりを桜にもたせ しだれ柳に咲かせたい」
 又住時は祝歌としても歌われ、「老松」、「伊予節」、「荷方節」に続いて、「本荘追分」がよく歌われた。
「この家座敦は目出度い座致 上(かみ)に大黒下(しも)恵比須」
「めでたうれしや思うこと叶う お山繁昌のげこ祝い」
「めでためでたの重なる時は 天の岩戸もおし開く」
「面白や面白や酒のみ座敷 せまい心も広くなる」
「めでためでたの若松様よ 枝も栄えて葉も茂る」
「お前百までわしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで」
「この家お庭に藤一本生えた つると思ったば金のつる」

(2)新しい歌詞

大正に入って新作が生れ、当時の地方新聞「鳥海新報」が懸賞募集している。
 大正11年第1回募集
  1等当選作 斎藤安蔵(本荘)応募数1217(205名)
   「本荘よいとこ海辺の町よ 山の宝を舟で出す」
 大正14年第2回募集
  1等当選作 小野紅葉(南内越)応募数1682(749名)
   「あちらこちらに野火つく頃は 梅も桜も共に咲く」
  2等当選作 牧野好一郎(本荘)
   「本荘追分聞かせておいて 生きた魚をくわせたい」
  3等当選作 光風園牧夫(本荘)
   「本荘古雪みすじの町よ 出舟入舟ひきとめる」
  秀逸 浦苦笑子(院内)
   「花は咲く咲くお手作堤 心一重の花が咲く」
  秀逸 中村牧童(本荘)
   「本荘通いをやめよとすれば 焼山のわらびが手で招く」
  秀逸 鈴木幸八(本荘)
   「本荘港の浮舟見れば エゾ地通いの宝丸」
  秀逸 宮古家お蝶(本荘)
   「本荘名物焼山のわらび 主の筆ぐせよく似てる」
  秀逸 藤原五郎吉(上川大内)
   「本荘名物わらびもよいが 今じゃ名高い本荘米」
  秀逸 夢丸(本荘)
   「踊り踊りこおわたりの橋で 子吉川原の白むまで」
 外に当時の新作として
  「江戸で関とる本荘の米は おらが田圃の田で育つ」 小島彼誰(選者)
  「出羽の富士見て流るる筏 着げば本荘で上り酒」 豊島健彦(本荘)
  「流す筏におみきをのせて 下る子吉の春の川」 斎藤路光(院内)
 昭和32年、長谷川久子の全国のど白慢大会優勝を記念に贈った斎藤路光の歌、
  「鈴の音たよりに峠を越せば 恋し本荘はおぼろ月」
  「江戸で関とる…」の歌詞は最初子吉の渡辺某の歌詞「子吉田圃の田で育つ」を選者の小島彼誰が「おらが田圃の田…」に改作したもの、最近でば「おらが在所…」と歌っている。
 歌われる歌詞も時代により地域にょって、いろいろと変っていくものである。

旋律、拍子について

 

 本来の道中歌、山の歌から酒盛歌、座敷歌になったものなので、歌詞も前述の様に多様になり、旋律・拍子も明るく、はずむ調子が特致である。
 最初のハーの長さも字余りにより短く全然つけない歌い方もあった。抑揚も時代により、又地方によっていろいろな歌い方がある。
 十人十色それが民謡の特徴であろう。しかし、概して奥地に残る坊様達・太夫の歌に変化があり、古雪芸者達の歌われる歌はやや平板的である。
 但し何れも拍子は手拍子に合わせて、しかも弱起から出ていることに注意したい。最近の歌に聞かせる歌になって流れるような遅いテソポになり、踊り歌の早間の歌とわかれるようになってきた。

踊りについて

 

 踊りについても地方により変化に富んでいる。
 民謡は歌と歌詞、所作(踊り)と一体となって感情の表現をするものなので、旦に歌う場合でもそのことを考えて歌うようにしたいものである。
 現在一番広く踊られているものは本荘市子吉地区に残る踊りを元に再生された鴻瀬玉子(本荘市、三浦寒月夫人)のものと、その子栄一(元北内越小学校長)に振付された盆踊風のものであろう。
 前記の踊る姿をアレンジしたブロンズ像を昭和59年、本荘ロータリークラブが本荘市役所前に建立し、台座に小島彼誰作の、「江戸で関とる……」の歌詞の青銅板が埋込まれて本荘市の象徴になっている。
 更に由利町、鳥海町にも古い形の踊りが伝えられており、平成5年度の全国高校総合文化祭で由利高校民謡部が鳥海町の踊りで優秀賞に選ばれ、8月には東京の国立劇場でも再演され好評を得た。

本荘追分と伊予節

 

 当地方の古くから伝わる「伊予節」、四国松山地方で生まれたという座致歌が京・大阪で端唄として磨かれ、やがて江戸へ、そして全国へと広まった。名物・名所づくしの歌詞が多く、その土地土地で新しい歌詞が創作され当時の全国的流行民謡となった。
 当地方でも、矢島・鳥海・象潟と旧矢島藩内に多く残っているが、外に本荘市石沢、西目では各部落毎の歌詞が作られている。最も古いと思われている歌詞で象潟を詠んだ次の歌詞がある。
 「出羽の象潟名所の名寄せ 上は遊山で稲荷下は弁天いじょう島より 四方を見渡す中の丁で 沖にひらひら見ゆる船々 八ツ島関所を横に見て お寺のおん坪めんぐれば これもし西行の歌桜 見やしゃんせ」
 象潟が隆起(文化元年・1804)する以前のものと思われる。又本荘を歌ったものに
 「出羽の本荘はさて賑やかに 春は矢島の積み下し 風に帆をまき俵数揃えて お倉に十万八千俵 四海波風翁だやかに 倉宿問屋に積み重ね 古雪芸者あねまが 入りくる白帆を出て招く 招きしゃんせ」
 以上の古い歌詞の歌い方は松山地方の歌い方と旋律は殆ど同じであるが祝い歌として歌われる新しい歌詞では後から二節目を「本荘追分」調で歌っている。例えば
 「今年豊年 年きもよくて 祝う門には福来たる はやし給えや舞いつ踊りつ 弁天さん三味ひく 毘沙歌う 寿老人年寄り役 鉦たたいて 笛は福禄 布袋つつみ(恵比寿太鼓打つ 大黒踊りよ)(追分で)七福神のお酒盛 御目度や」
 曲調に変化をつけるために挿入したものであろう。「本荘名物…」の名物も「伊予節」名所、名物づくしからの転化ではなかろうか。

伝承に力を尽くした人たち

(1)佐藤林之一(平ノ沢坊)

 鳥海町上笹子平ノ沢生(文政十一年(2828))、幼少で失明、芸道で身を立てることに決心し、二十にして江戸に上り、藩公生駒氏の屋敷のあった下谷附近の師匠について修業したようであるが、師の名はわかっていない。
 一通りの芸を修めて郷里に帰ってからも数回江戸に上り終生独身で明治29年(1896)没した。
 「林之一」は「林之市」の芸名が本名になったもので藩公から贈られたと伝えられている。林之一は、歌・三昧線に勝れただげでなく胡弓・尺八もよくした。弟子も多勢おり、その弟子を連れて地方によく回ったという。勝れた弟子の中に、
荒沢坊こと土田清市(矢島町荒沢)
治郎助姉ここと真坂よしゑ(直根村下直根)
田沢の兄こと麻生貞吉(矢島町田沢後由利町吉沢へ転住)
などがおり、これらの弟子に孫弟子が出来、今も鳥海町、矢島町、由利町、本荘市石沢などにこの「林之一流」が伝わっている。
 「荷方節」、「追分」、「岡本」、「臼ひき歌」など歌・三味線に特徴をもっており、「追分」あたりも彼の作ではないだろうか。「岡本」も彼が直接江戸より移入したとも考えられる。
 法名 天真斉覚林埜大徳 平ノ沢の入口に墓がある。

(2)土田清市(荒沢坊)

 矢島町荒沢、本名善之助(文政9年〜明治32年(1826〜1899))
 盲目のため、芸によって身を立てるべく前記佐藤林之一に学び、毎年何回か城中(矢島藩八森城)にも呼ばれ、扶持米として十二俵(三斗入)をもらっていたという。生涯結婚せず、妹に家督を継がせ芸一すじに一生を終わったのは林之一と同様で、戒名は保鐘斉聖丘良市大徳、高弟に佐京の市がいる。

(3)小松藤太郎(佐京の市)

 矢島町七軒町(嘉永3年〜明治25年(1850〜1892))
 師は前記の通り近くの荒沢坊こと土田清市、胡弓、三味線の名手として多くの弟子を育てた。その一人に鈴木勇吉(船打坊)がいる。戒名は、眼開良須大徳、その子孫は現在隣町の東由利町高戸屋におられる。

(4)鈴木勇吉(船打坊)

 東由利町船打場、後前郷に転住。
 三味線を矢島町の佐京の市に学び、由利町前郷に移ってから、畑中友治(前郷)畑中善治郎(前郷)などの弟子を育てる。

(5)畑中友冶

 由利町前郷(嘉永4年〜大正10年(1851〜1922))
 船打坊こと鈴木勇吉に学び、佐藤三治郎(鮎瀬坊)、小松直吉(石沢館)ほかの弟子を育てる。

(6)佐藤三治郎(鮎瀬坊)

 畑中友治(前郷)に学び、良富深太夫とも称し、長らく前郷の祭典に当って後小路町内の踊り山に、太夫として功労があったとして、昭和3年に有志によって前郷三光神社境内に「良富深太夫記念碑」が建てられている。弟子に大場石造(石沢上野)、藤原菊子(鮎瀬)ほかがいる。菊子は昭和8年レコードに本荘追分を吹込み、師の三治郎自自身も吹込んでいる。

(7)大場石造(石沢上野)

 明治38年〜昭和54年(1905〜1979))
 本荘市上野・川向いの鮎瀬坊に学び、大場嘉市(上野)、小松留吉(上野)ほかの弟子を育て、昭和40年県教委収録のレコードに「本荘追分」が収録され、リズムのよい、細やかな三味線の弾語りである。
 大場嘉市は浅野梅若に本荘追分の三味線を教え、師と同様昭和40年のレコードには「草刈歌」を入れている。小松留吉は永らく猿倉人形芝居木内一座の伴奏者として活躍した。

(8)高力市太郎

 金浦町 明治21年〜昭和20年(1888〜1945)
 山形県酒田市生れ、明冶の終り頃より大正の始めに由利郡西滝沢や鮎川の農家に下男として働き、後に仁賀保町小出、そして大正の終り頃金浦に定住する。
 若い頃より芸を好み、三味線、歌など西滝沢時代に習得したと思われる。その頃西滝沢吉沢に前記の矢島町田沢から転住した麻生貞吉がいるので師はそのあたりと思われる。
 小出時代にはよくお祭り休みを利用して出かけ芸をしながら飴売りなどしていたという。
  金浦に定住してからも商売の傍、歌、三味線をよくし、昭和の4、5年頃弾語りで「本荘追分」ほかをレコードに吹込んでいる。高音のよく出る声で、尺八の斎藤弥吉(如水)、歌の加納初代と共に一世を風扉し、秋田市大森山の民謡碑に共に祭られており、浅野梅若三味線名人の最初の師でもある。

(9)黒木甚作

 鳥海町伏見 明治39年(1906)生〜
 林之一流4代目の師匠、三味線はもとより、歌・尺八と総べてをよくし、更に三味線の皮の張換え、尺八・横笛の自作と大変器用な人であり、太夫として活躍し、大勢の弟子の養成にも当った。
 高弟であり実弟の石垣甚助がおり、又兄弟弟子に石垣太一(現本荘市)もおり本荘追分の三味線を浅野梅若にも教えたという。
 以上の3人は何れも県教委レコード(昭和40年)に入っている。黒木甚作(岡本新内)石垣甚助(祭文荷方)、石垣太一(伊予節)
 以上大体林之一流の系譜をたどり乍ら紹介して来たが、江戸の文化・文政以後の最も華やかな芸風、即ち余韻を残す、俗に「ニャオンニャオン」と猫のなき声のような、二の糸に特に響をもたせる弾き方、それに左手のすり上げてシャーブに響かせる弾き方がその特徴である。「本荘追分」のほか「荷方節」「臼ひき歌」などに特にそれが見られる。三味線も細棹か、中棹を使い弾き方は江戸、上方端歌と同じである。

(10)甚能亭 藤子(古雪芸妓)

 物資集散の地として古雪港の名は全国に高く、米穀及木材等を輸出して、塩、砂糖、その他雑貨の輸入が盛んで、由利一郡の門口をなし、主として越後、越中、越前、加賀、出雲、大阪地方と交易して示帰心殷賑を極めた。その港近くの遊郭も又大いに賑わった。
 その芸妓の中でも、歌に勝れた甚能亭藤子は大正14年、鳥海新報が懸賞募集した新作4と旧来のもの4と合せて8つを表裏のレコード(日蓄)に吹込んでいる。又、昭和5年に、吉野屋錦子が、「本荘追分」と「臼ひき歌」をコロムビアレコードに吹込む。

(11)加納初代

 由利郡金浦町 明治26年〜昭和41年(1893〜1966)
 仁賀保町三森で生れ、小出そして金浦と若き日を過し、その頃からすぐれた美声で巷間の民謡をよくし、特に金浦町で開かれる馬の競売市では丈夫な体も見こまれ遠くまでの馬引きやら、宴席(特に山形屋)にも呼ばれ、遠くから来た馬喰達の歌などもよく吸収し、その中で「本荘追分」についても聞きおぽえの中に自己流を編み出したようで特定の指導者についたものではないようである。
 勿論金浦では前出の歌、三味線の名手、高力市太郎、尺八の斎藤弥吉(如水)がおり、2人の伴奏でも歌っている。
 最初のレコードぱ昭和3年頃であるが、現在残っている本荘追分のレコードは昭和7年コロムビアから、三味線佐藤東山、尺八菊地淡水、その他太鼓入りの新しい歌詞で吹込み、昭和11年には今度は従来の歌詞で両面で山形きよ子の名で吹込んでいる。その頃から五城目の鳥井森鈴、秋田の長沢定治夫妻達と一座を組み全国を巡業し、名声を拍した。高力、斎藤と共に民謡碑に祭られ、近年、地元金浦町勢至公園に顕彰碑も建立された。正に本荘追分を全国的に広めた最初の一人といえよう。
 前記の山形屋のおかみが土門信江、明治19年、山形県飽海郡遊佐町吹浦字女鹿生れ 大正12年、金浦町に来て旅館を経営、本業よりも、由利、庄内地方を巡業する歌手の方で知られ、三味線の高力市太郎とも組み、本荘追分のレコードも吹込んでいる。

(12)長谷川久子

 河辺郡雄和町出身、秋田市(昭和12年〜平成7年)
 昭和32年nhkのど自慢コソクール日本一は皆の知る処、加納初代のレコード聞きながら更に手を加えて、三味線名人浅野梅若、尺八畠山浩蔵の強力な伴奏陣の協カを得て現状の本荘追分を定着させた。
 その後本荘市の追分塾始め多くの弟子養成に当った。浅野梅若の三味線も「林之一流」の流れを汲み、秋田三味線の評価を確立し、歌と共に名曲中の名曲を編み出している。
 同年日本民謡協会第8回大会で佐藤サダヱが優勝、その後昭和35年の全国青年大会で佐藤サワヱが優勝、昭和42年、日本民謡協会第18回大会で浅野和子、昭和52年大会で金沢恵子。昭和52年大会で吉田正男、昭和55年大会で菅原友笑、昭和57年大会で石川ウメコ、昭和58年大会で河田カツ子、昭和63年大会で松田操と夫々優勝し、郷土民謡協会全国大会でも、昭和45年大会で佐藤サワヱ、昭和50年大会で東海林叶江昭和57年大会で伊藤信子、平成元年大会で後藤麻貴子が夫々優勝し、平成4年では各大会の優勝者によるグランプリに後藤麻貴子が堂々と本荘追分で輝いており、平成8年でも浅野竹美がグラソプリを獲得。
 本荘追分は秋田県代表、いや日本民謡の代表的存在となった。

 

本荘追分全国大会と追分塾開講

 昭和59年11月、第1回を本荘市商工会が全県に魁て開催、当初の参加者70名から現在ぱ百名を越し、北は北海道から南は九州まで正に全国大会に恥じない大会に成長した。第8回(平成3年)よりは内閣総理大臣賞及び、文部大臣賞と一般と20才未満の2部にわけての授賞となり更に平成7年より60才以上の高齢者部門を設げて3部門として参加・授賞の拡大を図る。今や各全国大会の優勝曲となっている。平成3年本荘ロータリークラブが全国大会会場の文化会館前に記念碑を建立した。
 平成2年から同7年まで「いつでも、どこでも、だれでも歌って、踊って、語り継ごう」と本荘市商工会館を会場に本荘民謡愛好会の協力を得て「本荘追分塾」を開講、塾長には本荘民謡愛好会長の細谷善一氏が当り講師には前記本荘追分日本一の長谷川久子氏(秋田市)、歌の歴史その他については地元の牧賢蔵が夫々当り、月2回、一回2時間、毎年40名から50名で学習を続けた。学習の主な内容は次の通り。
(1)民謡と民謡の分類(2)追分の源流説(3)本荘追分と信濃の追分節(4)本荘追分の歌詞(5)本荘追分全国大会参加について(6)本荘追分の旋律と拍子(7)踊りについて(8)本荘追分と伊予節(9)伝承に尽くした人々(10)目本民謡の楽器(11)今後の課題


平成9年7月    牧  賢蔵

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