国指定重要無形民俗文化財

大綱引きの由来

 綱引きの由来、歴史についてはいろいろないい伝えがありますが、一説には今から500余年前に始まると言われて いますので、ちょうど、金閣寺、銀閣寺建立のころよりの伝習と思われます。

 菅江真澄の『月の出羽路』によれば刈和野は樺(カバ)の木の多い野原で「樺野(カニバノ)」といわれていました。 その後、野火に焼かれて草木が枯葉と化したことから枯葉野と変わり、苅和野の字を用いるようになり、草冠を取り現 在の刈和野になりました。また、一説によれば枯葉の関(苅柴の関)狩場野の里からの変化とも言われています。
 郡邑記によれば刈和野は、二日町、五日町、八日町、本道町、六郷町の五町でしたが明暦2年(1656)の大火で二日 町と五日町だけが残りました。
 綱引きは後漢の明帝の永平14年(71)に仏教と道教との優劣を試みるために行った行事がわが国に伝来し、正月の飾 り物を焼く左義長(さぎちょう)の大綱引きがその起源であるといわれています。

 刈和野の綱引きは、平将門が天慶2年(939)乱をおこして敗れ、その一族は落ちのびて福島の在にひそみ、やがてそ の子孫は、各地に散ったが、一族の長山氏はいつのころからか刈和野に土着しました。その奉ずる氏神が「市神」であ り、市神の祭事が綱引きであって町を上、下に分けて勝負を決し、勝者がその年の市場開設権を獲得したことから因を 発したといわれています。
 「市神」様は、昭和40年2月13日に浮島神社に合祀されましたが、現在でも綱引きの祭には奉戴され、綱に奉仕する 上町、下町は二日町、五日町と「市」の開催日で呼ばれてきました。
 綱の行事の責任者を建元といい、建元の指示で伝習によって作り上げるのですが、綱の原料となる藁(わら)は、新 藁7千束を必要とします。
 大綱の作り方は、まず藁打ちから始まり、グミ(長さ20m、太さ10cm)を作り、これを長く伸ばして数十人の人達 がまぶしい新雪の広場で営々として撚りをかけ、打ち返して大綱を作り上げます。大綱は上町(二日町)の雄綱、下町 (五日町)の雌綱とし、長さは雄綱42尋(約64m)、雌綱33尋(約50m)、太さはともに直径約80cmとされ、それぞ れの綱の先端は陰陽を象徴しています。

 大綱が作り上がるとただちに引き合い会場中心に運ばれ、大蛇がとぐろを巻いたように、七巻きに積み上げ7日間飾 られます。2月10日、神事が終わると双方の綱は繰り延べられ、尻綱、小綱がつけられますが、その長さは上、下各々 100mに達します。綱のあわせ作業は、この行事の最も興味のある場面です。上綱は男性の象徴であるケンとなり、下 綱は女性を表したサバグチの形を成していますが、これを結び合わせるにはまず、雄綱の先端を10mほど雌綱に挿入し、 それで雌綱をひと回り締め付けるという方法をとります。そのために主として雄綱を10m余計に繰出さなければなりま せん。
 建元達が声を枯らして綱の繰出しを命ずるのですが、1年間の勝負をこの一瞬にかける双方の若衆はやすやすとその 声に応ずるわけにはいかず、押し合いが始まります。ようやくにして合わせかたが始まり、結びができる段になると この場所において勝手に声高に叫ぶことや提灯の火を高く上げることは禁物です。万一この掟を破ると満を持していた 大衆は、一度にどっと引き始め、結び目は回転して跳ね返り、多大の惨事を引き起こす結果となります。

 声も提灯も地に潜み、小声で話し合う建元達の目がひとつの了解に達した途端、一人の建元の手が高く上がり、「ソ ラーッ」の合図とともに引き合いが始まります。潮の如く湧き上がるかんせいと指揮に散る提灯の灯とは一種の壮観美 を伴います。提灯(サントウ)にリードされた遠雷のような引き声はある種のリズムを奏で、この土地に生れたものに とっては、たえがたい興奮を呼び起こします。ジョウヤサーの掛声は、喉も張り裂けよと渾身の力をふりしぼって引き 合います。引き合うこと数十分、勝負が決まれば若者の意気は更にあがり、ひとしきり押し合い、気勢を上げます。

 引き合いの終わった綱は、刃物を使用することを禁じられ、木槌やテコで解きほぐされ、浮島神社境内に奉納し、祭 を終えます。
協力:刈和野大綱引保存会